八木用水の歴史
細野神社にある八木用水(定用水)の石碑 石碑の「卯之助」の文字 数年前までにあった古いままの用水
城山を回っていた用水路のなごり(今はありません) 桑原卯之助の墓所がある勝想寺 卯之助の墓
かつての取水口付近。現在と違って、太田川がすぐそばに見えます。
※佐東地区まちづくり協議会より
昭和12年。用水の水を人力の水車で田に引き入れています。今では、見られない光景です。
(1837)※佐東地区まちづくり協議会より
昭和38年の八木用水。現在の上緑井幼稚園付近だと思われます。石垣やそばに生えている草が今は珍しいです。
※佐東地区まちづくり協議会より
昭和33年。用水の石橋の上でのスナップ。夏の日の一こまです。(1958)
※佐東地区まちづくり協議会より
昭和42年。城山から南に向かう八木用水。このころは、まだ、田畑もずいぶん多かったようです。(1967)
※佐東地区まちづくり協議会より
農作業の休憩中。ゆったりとした時間を感じます。(「ふるさと祇園とその周辺」上土井正行撮影より引用・広島市郷土資料館蔵)

 江戸時代の始めごろ、八木・緑井・長束などの安佐南区の太田川右岸は、農業用水に乏しく、稲作に適さなかったため、そば・大豆・粟などの雑穀に頼って生活していました。その後、1600年代後半から1700年代前半にかけて、水車や井戸・堰を作って用水を確保しようとしましたが、どれも失敗に終わりました。
 そのころ、祇園町下安で大工をしていた桑原卯之助(1723〜1783)が、太田川の水を引き入れることを思いつき、用水路の掘削に取りかかりました。この時の卯之助の決意は固く、許可を願い出る文書の中に「もし完成いたしませぬ節は、細い首ではございますが差し上げ申すべし」と書き添えてあったそうです。卯之助は、何度も調査を重ね、緻密な傾斜角の計算をし、八木の十歩一を取水口に決めました。
 1768年にやぎ用水が完成し、初めて水路に水が流れ込んだときは、「老若男女大勢集まかり出、感涙を流し、大いに喜び申し、しばしの間村々百姓たち卯之助井出と申し候」と伝えられています。水路の完成と、それに加えて新田の開発も行われたので、収穫高もおおいに上昇したそうです。

※「思いでの佐東町」「思いでの佐東町2」より引用させていただきました。